戦争体験記の著者の旧宅。 シリウェン・ロード、バンゴール

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〈メナイデール〉と呼ばれるこの邸宅は、1920年代にベストセラーとなったトルコでの捕虜体験記を書いたエライアス・ヘンリー・ジョーンズ(1883-1942)が住んでいた家である。

彼は教育界の先駆者だったサー・ヘンリー・ジョーンズの長男としてアベラストウィスに生まれ、バンゴールやサンゲルナウ村で初中等の教育を受けた。そして父親がグラスゴー大学の倫理哲学教授であったころは同市の学校に通い、やがてグラスゴー、グルノーブル、オクスフォードなどの大学で勉学を続けた。

Photo of E H Jonesその後、大英帝国のインド高等文官の試験に合格し、1906年から15年にかけて植民地ビルマで地方行政官をつとめた。第一次世界大戦中はメソポタミアの砲兵連隊に配属され、後に将校となる。クート・エル・ママラの攻囲戦でオスマントルコ軍に敗れたさい捕虜となり、ヨズカトの捕虜収容所まで700マイルの苦難の行軍を経験した。

その戦争体験記『エンドルへの道The Road to Endor』において、彼はオーストラリア空軍のC・W・ヒル中尉と収容所からの脱走を試みた経緯を綴っている。二人は心霊術の占い盤(ウィジャ盤)を手作りし、これを利用した入念な脱走計画を立てた。自分たちは霊媒であり、地中海のある海岸に埋められた宝物まで案内できると警備兵らに持ちかけたのである。その海岸に着いたら、キプロス島へ逃走しようという目論見であった。

その計画は失敗したものの、6か月間、彼らは発狂を装うなどの計略をめぐらし続け、治療という名目での送還を勝ちとった。エライアスは、1918年春の偽装自殺で、あわや死ぬところであったという。最終的に、彼とヒル中尉は捕虜交換による英国への帰国を許されたが、それは終戦から2か月前のことだった。

1919年、エライアスは外務大臣として中東委員会を率いていたカーゾン卿の秘書になった。後の首相ウインストン・チャーチルもこの委員会のメンバーだった。(京都在住のハーブ研究家で英会話学校経営者のベニシア・スタンリー・スミスは、カーゾン一族の末裔である。)

1922年4月、妻マイルと4人の子供とともにメナイデール邸に入居したが、なんと引っ越した翌日に再びビルマに赴任することになった。娘の晩年の回想によると、「母がみんなのお気に入りだったルスカティーナの一節をピアノで弾いている最中に、父は玄関から出ていく」ような慌ただしさだったのだ。

1924年、インド高等文官を引退してバンゴールに戻り、エライアスは息子たちと北西イングランドの湖水地方や北ウェールズ山岳地帯のスノードニアでの釣りや狩猟を大いに楽しんだ。かたわら国際平和運動や地元の教育改革に熱心に関わり、リベラルな進歩主義と文化的ナショナリズムを掲げる月刊誌Welsh Outlook の編集長をつとめたりした。1928年にはバンゴール町議会の議員に選ばれ、またウェールズの幾つかの大学で評議員に任命された。ハルレッヒ・カレッジで経済と政治科学の教鞭をとったこともある。

すでに60以上の委員会でボランティアとして社会活動をしていたにもかかわらず、1933年、彼は北ウェールズ大学の事務官および教務官をも兼任した。1942年12月に亡くなったが、それは息子アーサーが戦死してから2年半後のことだった。

亡くなる前に、彼は「大げさな葬儀はしないように」、「私への献花よりも、そのお金をハルレッヒ・カレッジに寄付してください。貧しい少年たちの教育を助けるために」という言葉を残していた。

翻訳・補筆: 藤沢邦子(日本カムリ学会会員)

郵便番号 : LL57 2BH    地図

 

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