ビーコン・リング丘砦、ウェルシュプール、 ポーイス

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ビーコン・リング丘砦、ウェルシュプール、 ポーイス

この先史時代の丘砦の丸い形は、ケヴン・ディゴス(英語名はロング・マウンテン)の尾根上に、今なおはっきり見てとれる。砦は青銅器時代後期から石器時代初期にかけて、築かれ使用されていた。すなわち、紀元前1000年以降から、紀元50年頃に古代ローマ人がやって来るまでの間のことだ。

この砦はかつて、ウェールズ語でカエル・ディゴス(完全な砦)と呼ばれていた。Caer Digollの発音はこちら download mp3 (17KB) それは、ケヴン・ディゴス(完全な尾根)という古いウェールズ語地名に由来する。

ビーコン・リング丘砦という現在の英語名は、1887年6月に、ヴィクトリア女王の在位50年を祝って、ここで点火された狼煙(ビーコン)に因んでいる。レイトン・エステートの1663年の地図は、「ビーコン・プレース」とされる地点を、ファイヤー・バスケットを具えた支柱の印で示している。非常時の合図として、通常このような鉄製ファイヤー・バスケットの中でコールタールを塗ったロープが燃やされたのだった。エステートの地図上に記されているビーコン・リング丘砦の印は、おそらくウェールズにおける丘砦を記録した最古のものである。

この丘砦は、大昔のウェールズとイングランドの国境近くにあり、いくつかの伝承で物語られている。最も古い言及のひとつが、「老サワルフの歌」という9世紀または10世紀に書かれた詩だ。その一部に、7世紀のブリトン人の大公カドワロンとアングロサクソン人のノーサンブリア王との戦争において、「この丘砦はカドワロンの戦陣だった。サワルフは7カ月の間ここに踏み止まり、毎日7回の戦闘を繰り返した」と記されている。

1485年8月、リチャード3世打倒をめざすヘンリー・テューダーの遠征のとき、ケヴン・ディゴスは、重要な集結地点であった。ヘンリーとその急造の軍団(約2000人のフランス人傭兵) は、ペンブルクシャ―から、カーディガンとマハンセスを経て進軍していた。リース・アプ・トマスが率いる別の軍団は、ペンブルクシャ―からブレコンを経てケヴン・ディゴスに至るもっと南のルートを進んでいた。ここで、北ウェールズ各地から来た兵士たちがさらに合流し、ヘンリーの軍団はほぼ4000人に増えた。

ケヴン・ディゴスで生地ウェールズからこのような強い支援を受けたヘンリーは、自信をもって国境を越え、シュルツベリーに進軍した。レスターシャーのボズワースで戦闘が始まった時には、彼は将兵5000人を指揮するまでになっていた。リチャード3世は、敵より少なくとも2倍の兵力を擁していたにもかかわらず、破れて死んだ。ヘンリーはランカスター王家(紋章は赤バラ)とヨーク王家(紋章は白バラ)の間で30年も続いていたバラ戦争を終わらせ、英国史に大きな足跡を残すことになるテューダー王朝を創始した。左上の紋章は、両王家の和解を象徴するテューダー・ローズである。

1953年、この丘砦に、「E II R (エリザベス2世女王)」という文字を描くために、松とブナの樹が植えられた。これは女王の戴冠を祝うための事業だった。ただし、その成果のほどは、上空を飛行する人にしか見えなかった。

2008年、丘砦はクルイード・ポーイス考古学トラスト(CPAT)によって取得された。同トラストの当地に関する優先事項の一つは、上述の樹木を除去して、1950年代の初めまでそこに存在した、本来の高地草原を再生することにある。

翻訳・補足: 藤沢邦子

地図

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