ウェールズ国歌を生んだ親子の記念碑、アニサンハラッド公園

Link to English textAnthem writers’ memorial, Parc Ynysangharad

この記念碑は、高名な彫刻家サー・ウィリアム・ゴスコームにより制作され、1930年7月に除幕された。ウェールズ国歌『わが父祖の土地』の原曲を作ったジェームズ父子を顕彰するものである。歌を聞くにはここをクリック。演奏はポンタプリズのメイビオン合唱団およびパルク&ダレ楽団によるもの。

歌詞をウェーPhoto of anthem writers' memorial in Pontypriddルズ語と日本語でご紹介したい。

Mae hen wlad fy nhadau yn annwyl i mi,
私の父祖の古く、いとしい国よ
Gwlad beirdd a chantorion, enwogion o fri;
詩人と歌人と伝説の人びとの国よ
Ei gwrol ryfelwyr, gwladgarwyr tra mâd,
祖国の勇敢な戦士、亡き愛国の士よ
Dros ryddid collasant eu gwaed.
自由のため、あなたたちの血は流された
Gwlad, gwlad, pleidiol wyf i'm gwlad.
私の国よ、私は祖国を愛す
Tra môr yn fur i'r bur hoff bau,
海がこの美しい国を城壁となって守る限り
O bydded i'r hen iaith barhau.
いにしえの言葉の永久に栄えんことを

息子のジェームズがロンダ川のほとりを散策中にメロディーが湧き、彼は父エヴァンに曲にふさわしい歌詞をつけて欲しいと頼み、『ロンダのほとり』という楽曲が生まれた。(エヴァンが最初に詩を書き、ジェームズがそれに曲を付けたという説もある) ジェームズによる最古の手書き譜面の日付は1856年1月で、歌詞は3番まである。譜面はメロディーだけで、和音は付いていない。

美しい旋律と郷土愛あふれる歌詞のゆえに、『ロンダのほとり』は地元のチャペルや集会や催しで歌われるようになった。この曲は1858年のアイステッズヴォド(ウェールズの伝統的な音楽コンテスト)にエントリーされ、優勝楽曲の一つに選ばれた。その日の審査員だったジョン・オーウェン(詩人名<旋律のオワイン>)はこの曲に感動し、自身が1860年に出版した『珠玉のウェールズ楽曲集』に、『わが父祖の土地』というタイトルでこの曲を加えたので、その人気は一気に全国的に高まった。楽曲集に加えるにあたり、オーウェンはソプラノ、アルト、テノール、バスの和声をつけた。そして1887年、ロンドンでアイステッズヴォドが開催されたとき、皇太子アルバート・エドワード(ヴィクトリア女王の息子。後のエドワード7世)がこれに出席。式典の終わりに『わが父祖の土地』が歌われたとき、皇太子は参加者とともに起立した。人々は「ウェールズ賛歌への王室の敬意」が嬉しかったに違いない。かくして1890年代までに、『わが父祖の土地』はウェールズ国歌として認識されるようになった。

エヴァン・ジェームズ(1809-1878)は息子ジェームズ(1833-1902)が7人の子どもの一人として生まれたころ、ベドウェルティで毛織物商人、宿屋の主人、そして織屋であった。後に一家はポンタプリズに引っ越し、エヴァンはミル・ストリートで毛織物工場を営むかたわら、余暇には詩作を楽しんでいた。彼はポンタプリズのカルメル・バプティスト・チャペルに永眠している。ジェームズは地元のパブを経営しつつ、ハープ奏者として活躍していた。彼は最後に住んだ町アーバーダールの墓地に埋葬された。

1856年の手書き譜面は、現在のヴァージョンといくらか異なる。われわれが愛唱しているのは変ホ長調だが、原曲はへ長調であった。今のものは、一全音低いので、おそらく原曲よりも柔らかな印象になっているだろう。

翻訳・補筆: 藤沢邦子 (日本カムリ学会会員)


地図

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